Space Medical Mycology
宇宙ステーションを初めとした地球外の人工空間においても内因性、および環境由来真菌の排除は実際上困難であり、これら真菌が、様々なストレスによって免疫力を撹乱された乗員の健康を損なう状況は必至である。
そこで、本研究は、宇宙ステーションにおける真菌感染、およびアレルギー疾患を管理するために必要な基礎的研究を、宿主側の免疫機能と、起因菌側の感染能との両側面から行うことにより、必要な対策に資することを目的とする。より具体的には、以下の研究による。
1.1.1宇宙ステーション環境下における病原真菌に関する研究
通常、環境由来真菌の感染形態は気中に浮遊する分生子であり、これを吸入することにより、肺が初感染巣または感作臓器となり、全身感染またはアレルギーを生じる。したがって、宇宙ステーション空間において、真菌分生子の形成と浮遊の状況を管理することは真菌による健康障害を防ぐために不可欠である。地球環境中で最も普遍的な環境真菌であり、かつ最重要な肺真菌症起因菌として、アスペルギルス属真菌がある。本菌は、菌糸から分化した分生子柄を培地面に対して垂直方向に伸長し、その先端に感染源、またはアレルゲンとなる分生子を多数形成する。そこで、本菌を用いた、無重力下における分生子形成能の評価と、分生子の浮遊性に関しての評価を通した病原真菌の感染形態の変化に関する検討が必要となる。本研究は、肺真菌感染症起因菌であり、かつ主要アレルゲンであるアスペルギルス菌種によって、宇宙ステーション内において生じうる環境由来真菌による様々な健康障害の管理に関する基盤的な研究とする。
本研究では次の2項目 [1.1.1.1ミール船内から分離された真菌の形態学的・分子生物学的菌種同定、1.1.1.2微小重力環境モデルとしての重力方向不定培養装置を用いた病原真菌の気中浮遊型分生子形成に与える影響の検討] の検討を行った。
1.1.1.1ミール船内から分離された真菌の形態学的・分子生物学的菌種同定
ミール利用宇宙実験(1997年、宇宙開発事業団)によって、ロシアの宇宙ステーション「ミール」船内より微生物が採取され、岐阜大学医学部の江崎教授らによって菌種解析結果が報告された。しかし、真菌に関しては菌種同定に至っていない。そこで、江崎教授より分与された菌株に対して形態学的、生理学的、および分子生物学的検討を加え、菌種同定を行い、乗員の健康障害惹起可能性を考察した。
1.1.1.2微小重力環境モデルとしての重力方向不定培養装置を用いた病原真菌の気中浮遊型分生子形成に与える影響の検討
アスペルギルス属真菌を初めとした環境由来の病原真菌に関して、感染源、またはアレルゲンとなる分生子の形成能を、地上における疑似無重力状態において検討する。その第1段階として、より形態学的観察が容易であり、微生物実験材料としての安定性・安全性に優れたAspergillus nigerを用いた検討を行った。
1.1.2宇宙ステーション環境下における宿主・寄生体関係に関する研究
個体が様々なストレスに曝されることによって惹起される感染機序の一つとして注目されているものに、腸管内微生物(内因性微生物)の血中へのトランスロケーション(Bacterial translocation:BT)がある。臨床的に典型的な敗血症状態で死亡した症例の約30%では、敗血症の原因となる感染巣が確認されないことが報告されており、これに関してBTすなわち腸管からの細菌やエンドトキシンが腸管外へ“translocate”し、これがSIRS(systemic inflammatory response syndrome)の原因になると考えられている。BTは侵襲時、腸粘膜の防御機能の破綻、腸内細菌叢の変化と増加、全身の免疫機能の障害、さらには様々なストレスによって増進されると考えられているので,これらに対する対策が必要となる.
そこで地球重力からの離脱時の環境に相当する動物モデルに生じるBTを測定することにより、本機序による内因性真菌感染惹起の可能性評価を行う。本研究では次の検討を行った。
1.1.2.1ストレスによる腸管内真菌の血中へBTに関する検討
通常の腸内正常フローラを有する動物モデルを作成し、地球重力離脱時に相当するストレス(G)を負荷することによって動物に生じるBTを、生化学的手法を用いて定性的に解析することにより、本機序による内因性感染惹起の可能性を検討した。
1) 宇宙実験の計画・立案への位置づけ
宇宙ステーションを含めた宇宙船は、通常の地上環境と異なる人工的・無重力空間であり、現在まで特に選抜された少数の心身強健な宇宙飛行士のみが搭乗を許されてきた。
しかしながら、今後、長期滞在型の宇宙ステーションを利用する機会がより多くの研究者、技術者、あるいは旅行者などに開かれる事が予想される。この場合、これら一般乗員の健康面における資質には当然大きな個人差が考えられ、同時に今日宇宙飛行士に課している程度の健康面における管理は困難になることが予想される。また一般に、ストレス負荷時に個体の免疫力が低下する現象が知られており、地上重力からの離脱時、または宇宙空間滞在時の心身におけるストレスに対しても乗員の免疫力には同様の変化が想像できる。
一方、我々の体内・体表には正常の微生物叢を構成する真菌が共生しており、通常の地上環境におかれた健常人にとっては、微生物学的バリアとして感染防御の任を果たしている。また、環境中には多様な環境下にも適応できる環境真菌が存在し、自然環境においては分解者としての生態学的役割を担っている。これら内因性、および環境由来真菌は、管理された地上の人工的空間、例えば、免疫抑制状態にある患者を管理するためのバイオロジカル・クリーンルームにおいても十分に排除することは困難であり、そのために日和見感染症としての真菌症が医療現場で大きな問題となっていることは周知の通りである。
以上を総合して考えると、今後本格的な利用が期待できる国際宇宙ステーションを初めとした地球外の人工空間においても、内因性、および環境由来真菌の排除は実際上困難であり、これら真菌によって、宇宙環境固有の様々なストレスのために免疫力を撹乱された乗員の健康が損われる状況は必至である。
本研究では、起因菌側の問題として宇宙ステーションにおいても地上同様に潜在的に病原性を有する環境真菌が正常に発育・増殖することを明らかにした。また、宿主側の問題としては部分的ながら重力ストレスによるBT惹起の可能性を示した。
これらの結果を足掛かりとして、通常の地球環境下で健常人に対して無害な菌種が、宇宙船内において新たな感染性、病原性、アレルギー反応の抗原性を示しうる可能性を、生理学、分子生物学、および超微細形態学的手法によって、宿主側・起因菌側の双方から評価することによって、考えられる病態を提示するとともに、必要な対策を提案することが必要となろう。
以上より本研究は、将来一分野を成すと考えられる「宇宙感染症学」の先駆的・基盤的な研究の一つと位置付けることができる。
2)宇宙実験に発展させる際の課題
真菌感染症対策における起因菌側に対する対策の第一は、簡便迅速にして確実な菌種の同定法の開発研究である。この研究によって、初めて宇宙空間に置かれた人工的空間において、ヒトおよび環境中において健康を障害しうる病原体がいかなる挙動を示し得るかを明らかにできる手段が提供される。そのために必要となるのがマイクロアレイ法7)による分子生物学的菌種同定法である。本法は、時に危険を伴う培養を要さない検査法である。本法の開発は、単に環境・常在真菌のサーベイランスのみならず、宇宙ステーションの様に限られた環境においても、真菌をはじめとしたすべての病原体の同定、病原性等に関わる突然変異8)等も同時に可能となるシステムを提供できる。おそらく宇宙環境における感染症の病原診断法としては本システム以外に実用化可能なものは少ないものと思われる。このシステムの開発は宇宙開発に向けて必須な技術の一つである。
病原微生物のマイクロアレイを用いた同定系の開発は、国内外で部分的に行われているが、そのすべてが、より同定が容易であり既存の技術においても問題が少ない細菌に対するもの(一例は、米国 National Space Biomedical Research Institute, http://www.nsbri.org/)である。宇宙環境で問題となる真菌に対するもの、および腸内微生物叢に関する研究は現在のところなく、むしろ本邦の独壇場と言ってよい。そのためにより有効に国際的貢献が可能である。
真菌感染症について宿主側の対策については、地上における実験に限界があることを考慮すると、より重点的な動物実験を行った上で、早い時期に宇宙飛行士の検体を直接使用した研究に移る必要があろう。
3.今後の課題と波及効果等
本研究によって示された糸状菌の同定と、模擬微少重力環境下における発育性状は、まさに宇宙環境下における微生物同定、監視システムの必要性を訴えるものである。従って、今後必要となる感染、アレルギー、および微生物災害の起因真菌叢の検索を、宇宙ステーション内で可能とするシステムと手順を開発、提供することを目的とした追加研究を提案することが我々の使命であると考える。そこで、この研究の宇宙環境における重要性を以下に説明する。
一般にストレス負荷時に、個体の免疫力が低下する現象が知られており、宇宙空間滞在時の心身におけるストレスに対しても乗員の免疫力にも同様の変化が想像できる。そのうえ宇宙放射線にさらされる乗員の免疫力は、少なくとも軽度の免疫撹乱状態にあると考えられる。このような脆弱な宿主状態に対して、常在または環境中の真菌は、まさに宇宙ステーション内においても問題になりつつあることが、提案者16)をはじめ、米国およびロシア研究者12ム14)から報告されている。すなわち、この3月に地上落下処分されるロシア宇宙ステーションMir内において、多種多様の環境真菌が分離されており、その一部のものは少なくとも機器の機能を障害したが、これを排除することはできなかった。また、宇宙滞在中に乗員の腸管内Candida albicansの菌量が他菌種に比較して異常な増加を示すことも報告されている。
これらの真菌は免疫撹乱状態の患者においては、日和見型の致命的深在性真菌症を発症し、免疫力が正常な宿主においても高濃度の曝露によってアレルギー疾患の惹起は必至である。さらに、地上に比較して高線量の宇宙線に曝露するこれらの「宇宙真菌」が高度の病原性またはアレルギー原性を獲得する可能性も否定できない。
本研究で開発するマイクロアレイを用いた分子生物学的病原真菌検出同定法によって、初めてこれらの真菌による健康障害に対して効果的な対策(適切な除菌法と薬剤の選択を含む)が可能になる。このような提案によって宇宙環境中における菌叢とその傾向を把握した上で、真菌叢コントロールのために必要となる消化管内微生物叢の調整、適切な除菌、環境中の消毒等の対策を講ずることことが初めて可能となることから、宇宙ステーション本格利用に先立って必須の研究となるものと考える。